石川啄木

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f:id:hisakyonsan:20250802100343j:imagef:id:hisakyonsan:20250802103817j:image受験生である孫の合格祈願に湯島天神にお参りにいく。

その天神様の裏にある切通坂に石川啄木の歌碑があった。

二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも勤めのなればかな

 

本郷三丁目交差点近くの「嬉之床」の2階に間借りしていた啄木が朝日新聞社の夜勤の帰りに通った坂である

東京リハビリテーションセンター 茂吉歌碑

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小田急線の梅ヶ丘駅から歩いて五分、かつての茂吉が院長として運営していた青山脳病院は東京リハビリテーションセンター世田谷という立派な医療機関になっていた。

この敷地内に茂吉の歌碑がある。

茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ

かつての精神病院の面影はまったくなく、ガラス張りの明るい院内には若きも老いも笑顔でリハビリにいそしんでいる姿が見受けられた。

河津桜が満開、患者さんにも目の保養になっているのだろう🌸

八王子 大法寺の茂吉歌碑

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茂吉が昭和2年永平寺で詠んだ短歌。『ともしび』所収の一首。

うつし身の苦しみ嘆く心さへはや淡々し山のみ寺に

八王子とはかかわりはないが戦災で打ちひしがれた市民の支えにと建てられたらしい。

帰りにはま寿司でランチ🍣

百草園の牧水

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f:id:hisakyonsan:20250228180204j:image日野市にある梅林で有名な百草園に行って来た。駅からこの園までは凄い坂!体力がないとたどり着けない😭

 

しかし着くと甘い梅の香りと暖かさに癒される。庭園には若山牧水の立派な歌碑が建っている。牧水の長男旅人氏が設計したという。

 

 山の雨しばしば軒の椎の樹にふり来てながき夜の灯かな

 詰みてはすて詰みてはすてし野のはなの我等があとにとほく続きぬ

 拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり

 

牧水は旅に生きた歌人。まだ学生であったころ百草園の自然を愛し何度も訪れていたらしい。しかし、この歌は失恋しひとり静かに思いにふけり作った歌。

石川啄木終焉の地

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1886年明治19年岩手県で生まれた啄木は中学校卒業間近に上京、現文京区音羽に住む。しかし身体を壊し帰郷、その後北海道に渡るが1908年、再び上京し文京区内を転々とするが、1908年再び病いに倒れこの地で亡くなった。

歌碑に刻まれているのは啄木最後の歌とされている。『悲しき玩具』冒頭の歌2首である。この2首の直筆原稿を陶板にしてはめ込んでいる。そしてその歌碑は故郷の姫神の小桜石である。

  呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!

  眼とづれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあけるかな。

 

私の歌 啄木の絶筆書かれし姫神の小桜石はほのかに温し

 

八王子別所 浄瑠璃姫の碑

f:id:hisakyonsan:20250125162836j:image私の住んでいる八王子市別所にある長池公園に建てられている。昔、大磯の海から漁師が光る薬師如来を引き上げ相模の国の領主に持っていき城主岡崎四郎が崇拝、浄瑠璃姫が生まれた。姫は武蔵の国の城主小山田太郎高家に輿入れをする際父からこの如来を頂く。しかし高家が討ち死にをしてしまい姫も後を追って長池に身を投げてしまう。そのとき如来像を背負っていたという。その後、蓮生寺の住職が長池に光る薬師如来像を見つけ薬師堂を建て供養したという。

 毎日散歩している長池公園にこのような碑がたてられており、この伝説を知りますます歴史に興味を持った。

立川若山牧水

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f:id:hisakyonsan:20250122125703j:image立川駅北口広場に喜志子夫人の筆で

立川の駅の古茶屋さくら樹のもみぢのかげに見送りし子よ

と刻まれている。同期の土岐善麿奥多摩へ旅する途中立川に立ち寄った時の作。当時の立川駅北口には名物の桜の老木、赤い毛せんを敷いた2、3軒の茶屋。寂しい風景だっただろう。